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入院45日。11月15日の退院後、寝たきりになってからの日々 年末まで [日々の生活あれこれ]

昨年9月29日には自分で歩いて病院に行った母。

心臓疾患の疑いで緊急入院してから11月15日に退院したときには、完全に筋肉が落ちて、自力で車いすから立ち上がることもできなくなっていました。なのでこの日は退院祝いをすることもなくベッドからベッドへ移動しただけ。でも、意識ははっきりしてるし、食欲はないものの、ベッドに腰掛けて自分で食事はできたので、私の仕事はトイレに行くときにベッドに腰掛けた母をヨイショと車いすに乗せて、今回のために作ったスロープを押していきトイレの前で立たせてズボンとパンツを下ろしてもらい、便器に腰掛けさせて用足し、シャワートイレで洗浄したあと自分で拭いてから立つのを補助、パンツとズボンを上げたら再び抱きかかえて車いすへ。と、これぐらいだったのでまあなんとかなるかなと思っていたのですが。

しかし退院の夜から始まった自宅介護の日々は、日を重ねていくごとに思った以上に大変なものとなっていったのでした。


そもそも、最近では自宅介護はせずに施設に入所することが多く、退院前カンファレンスで「自宅で介護します」と言ったときの「え?」という空気ははっきり覚えてます。何しろ一番近い大病院まで25km弱、93歳という年齢、心臓に爆弾を抱えている、ということで緊急の対処ができませんし、私自身が身体障害者ですし。

ただこれらは母の、「どうせ死ぬのなら家で死にたい」の一言で解決しました。

実はもっと前の時点から母の要望で、もし自分になにかあっても、蘇生措置はしない、延命措置はしないとかねてより決めてあったのです。

この時点で、母は覚悟ができていたのかもしれません。

なので私もそれに答えるべく自宅介護をすることに決めたのでした。


さて、自宅介護を行うに当たり、介護施設側からの要請もありました。

それは、何かあっても救急車は呼ばず、訪問介護ステーションに連絡すること。(24時間待機してる)そうすればかかりつけ医に連絡が行き、即時駆けつけてくれます。と同時にケアマネージャーにも連絡が行きます。


まず翌日からいろいろな申請を行いました。

○かかりつけ医に訪問診療を依頼、毎月末の月曜日に自宅へ来て心臓の診察をしてもらいます。

○地元に近い介護施設からケアマネージャーを選出してもらい、介護申請の窓口になってもらいます。

○ケアマネージャーを通して訪問看護師を派遣してもらいます。(週1回毎週金曜日)この人は体や髪の清拭をしてくれますし同時に床ずれなどの治療をしてくれます。

○市役所から「介護保険資格者証」が送られてくるので(本来年金を受給開始する年に送られてくるけど、母の世代だと介護保険制度自体がなかったので病院の医療福祉師が申請してくれる)それを市役所へ持っていき介護保険負担割合証を発行してもらいます。母の場合は5段階の要介護認定ランクのうち3でした。これが決まった時点で介護保険が使えるようになるため、ベッドや車いすなどが1割負担(要介護3の場合)でレンタルや購入できるようになります。また手すりやスロープの設置費用などが遡って補助されます。


最初は一人で行う予定だった介護ですが、定年後アルバイトをしていた弟が仕事をやめて介護を交代で行えることになりました。これはマジで助かりました。なぜなら母のトイレは24時間いつ呼ばれるかわからなくて、長時間熟睡することが不可能だったからです。二人で交代で介護を行うに当たり、毎日の排尿、排便、薬を飲んだかどうかなどの情報を弟と共有するため、エクセルで表を作って記録するようにしました。(この文章もそれをもとに書いています)


さらに大変だったのは、標高が350mあるため気温が低く(部屋の仕切りが障子や襖だけで断熱壁のない我が家で母の部屋の温度を18度以上に保つためには、24時間ファンヒーターを入れていないといけません)、10月後半から火を入れていたファンヒーターが3時間以上連続使用できなかったことです。これは安全のための機能でどのファンヒーターも3時間毎に延長ボタンを押さないと消火してしまうのです。なので目覚ましをかけて3時間毎に起きて延長ボタンを押すという仕事が春までずっと続くことになりました。


12月4日、トイレの便器にできるだけ近い場所まで車いすを寄せるため、トイレのドアを外してカーテンと入れ替え。この頃は1日5回の小用と、3日おきぐらいの下痢(便秘を防ぐため軟便にする薬を服用)をトイレで済ませてました。


12月7日、入院していたトヨタ記念病院への最後の通院診察。地元のかかりつけ医に、薬と診療を依頼する紹介状を出してもらいました。(実際は書状ではなくネットで依頼)この通院で母の現状がはっきりしました。筋肉が落ちて、車から車いすへ、車いすから車に乗り代えることすら困難だったのです。


退院してから半月、一番困ったのが食事をしてくれないことでした。これは入院数ヶ月前からどんどん食が細くなっていて、入院を機にさらに加速したようです。退院直後で1日1食、それもおかゆを茶碗いっぱいほど食べるのがやっと。心臓に水がたまらないように利尿剤(食後)を飲まなくてはいけないので、どうしても食べさせないといけないんですが。こればっかりは本人次第。ただ、初めて作ったナスの揚げ浸しを喜んで食べてくれたので、食べてくれるおかずが一品増えました。


DSC_2008.jpg

これが退院後の主食です。おかゆに自家製梅干し、九州人のソウルフード「高菜のごま油炒め」。これを1日1食だけ。(この頃はまだベッドサイドのテーブルでベッドに腰掛けて自分で食べることができてました)あと食後にプリンとかカップのぜんざいを一つづつ。たまにオムレツを食べてくれましたがすぐにお腹がいっぱいに。


DSC_1985.jpg

流石にこれでは栄養が足らないので、かかりつけ医が補助の栄養源として「ラコール」というドリンク剤を出してくれました。平たくいうと大塚製薬が出していたカロリーメイトです。一袋で200キロカロリーといろいろな栄養素が摂取できます。結局亡くなるすぐ前まで、これが補助ではなくほぼ主食となったいったのでした。

あと、12月の半ばまでは自分で体を起こせたので床ずれもできず、完全な寝たきりではなかったのです。


ただ、半ば頃からトイレまで保たなくなり、おむつを履いてもらうことになりました。そしてこの頃から尾てい骨の少し上辺りに床ずれができ始めました。こればかりは素人では対策ができず、毎週金曜日に訪問介護を頼むことになりました。実は退院から1ヶ月、顔を拭くぐらいで、体を拭くことも頭を洗うこともしてなかったのです。訪問看護は看護師さんが診察とともに体や頭の清拭をしてくれるのです。1ヶ月も頼めなかったのは介護保険の認定に時間がかかったためでした。1回目の訪問看護は12月16日。とても気持ちよさそうでした。


この頃から母は起き上がることが難しくなってきました。困るのはトイレです。ただでさえ車いすに座らせるため持ち上げるのに、腰を痛めてしまい何度も落下させてしまい、膝が痛い母に悲鳴をあげさせてしまう羽目に。そこで母と話し合い、ポータブルトイレを使うことに合意してもらいました。プライドが高い母には辛かったはずですが、息子たちの腰を気遣ってあっさり了承してくれました。これでかなり介護の負担が減りましたが、トイレが近い母が数時間おきに我々を呼ぶのは変わりなく、あいかわらずまともに寝られない日々は続きます。
12月27日、訪問看護師さんの提案でベッドのマットレスを、自前のものからレンタルの床ずれ防止用のものに交換してもらいました。これで少しでも良くなればいいのですが・・・。


12月の後半、三重県に嫁に行った姪っ子に子供が生まれました。そうです、母にひ孫ができたのです。年明けにうちに連れてくることになりました。


続く

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もも

お母さまの自宅介護大変でしょう、私の母は自宅介護は諦め特養介護施設に入っていましたが昨年93歳でコロナに感染して2日で亡くなってしまいました親の死に目にも会えずに母に対して申し訳ない気持ちです家に帰りたがっていたのに、今お母さまを身近で介護するのが最大の親孝行だと思います。
by もも (2023-05-18 02:47) 

MHR

ももさんご訪問ありがとうございます。
母は半年の自宅介護の末3月29日に亡くなりましたが、それ以来心に穴が空いたような状態がずっと続いていて何もやる気が起こりません。つらい日々でしたが充実した毎日でした。順番だということは理解してますが、先日は猫が天に登り寂しさが募っています。次は私自身の介護かなあ。
by MHR (2023-06-02 11:15) 

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